量子力学とファイナンスは、一見するとまったく異なる分野です。
量子力学は電子や原子の状態を扱う物理学であり、ファイナンスは株式、債券、デリバティブなどの価格やリスクを扱います。
ところが数理的な記述を眺めていると、両者には妙に似た構造が現れます。
- Hilbert 空間
- 内積
- 直交射影
- 線形作用素
- 自己共役作用素
- 固有値・固有関数
- スペクトル分解
などです。
なぜこれほど違う分野で同じ数学が現れるのでしょうか。
結論を先に言えば、
量子力学もファイナンスも、関数をベクトルとして扱う関数空間と、その上に作用する線形作用素によって記述できるから
だと考えると、かなり見通しがよくなります。
ここでは量子力学とファイナンスを「同じ現象」と考えるのではなく、関数解析という共通の数学的言語から比較してみます。
各節では、まず数学的な概念を一つ取り上げます。そのうえで、「量子力学では何に当たるか」「ファイナンスでは何に当たるか」を並べて見ていきます。
1. 関数を「ベクトル」として考える
有限次元の線形代数では、線形空間\(\mathcal{V}\)の元をベクトルといい、\(\mathcal{V}\)に何かしらの基底を\(\{e_i\}_i\)を導入すれば、ベクトル\(x\in\mathcal{V}\)は
$$x=\begin{pmatrix}x_1\\x_2\\\vdots\\x_n\end{pmatrix}$$
のように成分でかくことができました。
関数解析では、この考え方を無限次元へ拡張し、
$$f(x)$$
という関数そのものを一つのベクトルとして扱います。
代表的なのが \(L^2\) 空間です。例えば
$$L^2([0,1])$$
は、
$$\int_0^1 |f(x)|^2dx<\infty$$
を満たす関数の空間です(ほとんど至るところ等しい関数は同一視します)。
内積を
$$\langle f,g\rangle=\int_0^1 f(x)^*g(x)\,dx$$
と定義すると、これは Hilbert 空間になります。有限次元の線形代数を、関数の空間へ拡張したものだと考えればよいでしょう。
2. 量子力学とファイナンスにおけるHilbert 空間
数学的な概念
測度空間 \((S,\mu)\) 上で二乗可積分な関数の全体を \(L^2(S,\mu)\) と書きます。内積
$$\langle f,g\rangle=\int_S f^*g\,d\mu$$
を入れると Hilbert 空間になります。\(S\) と \(\mu\) を何にするかで、具体的な空間が決まります。§1 の \(L^2([0,1])\) は、\(S=[0,1]\)、\(\mu\) を Lebesgue 測度とした場合です。
量子力学では
非相対論的量子力学では、粒子の状態を波動関数
$$\psi_t(x)$$
で表します。各時刻 \(t\) を固定すると、
$$\psi_t\in L^2(\mathbb R^3)$$
です。つまり \(S=\mathbb R^3\)(位置の空間)、\(\mu\) は Lebesgue 測度であり、量子状態は Hilbert 空間
$$\mathcal H=L^2(\mathbb R^3)$$
の一つのベクトルとして表されます。
状態は \(\|\psi\|^2=\int|\psi(x)|^2dx=1\) と規格化されます。\(|\psi(x)|^2\) は位置の確率密度であり、\(\psi\) 自体は確率ではなく、複素数値の確率振幅です。
ファイナンスでは
ファイナンスでは確率空間
$$(\Omega,\mathcal F,P)$$
を考えます。株式の将来価格やポートフォリオの payoff は確率変数
$$X:\Omega\to\mathbb R$$
として表されます。もし
$$E[X^2]<\infty$$
なら、
$$X\in L^2(\Omega,\mathcal F,P)$$
です。つまり \(S=\Omega\)、\(\mu=P\) です。この空間には
$$\langle X,Y\rangle=E[XY]$$
という内積を入れることができ、\(L^2(\Omega,\mathcal F,P)\) も Hilbert 空間になります。確率変数は実数値なので、複素共役は付きません。
注意
量子力学の \(x\in\mathbb R^3\) は位置を表す配置空間上の点であり、ファイナンスの \(\omega\in\Omega\) は根源事象です。また、波動関数は二乗して初めて確率密度になるのに対し、確率変数は値そのものが payoff です。したがって物理的・経済的な意味は異なります。
ここで比較しているのは、
ある基礎空間上に定義された関数を、Hilbert 空間のベクトルとして扱う
という数学的構造です。
3. 量子力学とファイナンスにおける線形作用素
数学的な概念
Hilbert 空間 \(\mathcal H\) の元 \(f\in\mathcal H\) に対して、
$$A:\mathcal H\to\mathcal H$$
という線形作用素を考えます。つまり、
$$\boxed{f\longmapsto Af}$$
という構造です。有限次元の行列を、無限次元へ拡張したものと考えればよいでしょう。
ただし、無限次元では行列と違い、微分作用素のように有界でないものが現れます。そのような作用素は、全ての元には作用できないので、定義域まで含めて指定します。
量子力学では
代表例が Schrödinger 作用素(Hamiltonian)
$$H=-\frac{\hbar^2}{2m}\nabla^2+V$$
であり、Schrödinger 方程式は
$$i\hbar\frac{\partial\psi}{\partial t}=H\psi$$
と書かれます。
\(H\) は微分作用素なので非有界です。\(L^2(\mathbb R^3)\) の全ての元には作用できず、定義域(箱の中の粒子なら境界条件も)を適切に決めて、初めて自己共役になります。例えば \(V\) がクーロンポテンシャルの場合は、Kato の定理により自己共役になることが示されます。
自己共役であることには物理的な意味があります。固有値がすべて実数になり、測定で得られるエネルギーとして解釈できます。また、異なる固有値の固有関数は互いに直交します。観測できる物理量は、このような自己共役作用素で表されます。
したがって量子力学は、
$$\boxed{\text{Hilbert 空間上のベクトル}+\text{その上に作用する線形作用素}}$$
という形で記述されます。
ファイナンスでは
\(f\) に相当するものは、payoff やリターンを表す確率変数です。その上に作用する作用素として、次のものが現れます。
- 条件付き期待値 \(E[\,\cdot\mid\mathcal G]\)(\(L^2(\Omega)\) 上、§4)
- 共分散作用素 \(C\)(\(L^2([0,T])\) 上、§6)
共分散作用素は確率変数の空間 \(L^2(\Omega)\) ではなく、時間や満期を添字とする関数の空間 \(L^2([0,T])\) に作用します。また、価格付けは作用素ではなく、Hilbert 空間から \(\mathbb R\) への線形汎関数として現れます(§5)。
共通する本質
両者が似て見える直接的な理由は、
$$\boxed{\text{関数をベクトルとして扱い、その上に作用する線形作用素を考えているから}}$$
です。
4. 量子力学とファイナンスにおける直交射影
数学的な概念
Hilbert 空間 \(\mathcal H\) の閉部分空間 \(V\) に対して、直交射影 \(P_V\) が定まります。
$$P_V^2=P_V,\qquad v=P_Vv+(v-P_Vv),\qquad (v-P_Vv)\perp V$$
であり、\(P_Vv\) は \(V\) の元のうち \(v\) に最も近いものです。有限次元の線形代数で、ベクトルを部分空間への射影とその直交補空間に分けることと同じです。
量子力学では
自己共役作用素 \(A\) の固有値 \(a\) に対応する固有空間への射影を \(P_a\) とします(スペクトル射影)。状態 \(\psi\) に対して \(A\) を測定し、値 \(a\) が得られる確率は
$$\langle\psi,P_a\psi\rangle=\|P_a\psi\|^2$$
であり、測定後の状態は \(P_a\psi/\|P_a\psi\|\) に更新されます。
ファイナンスでは
確率変数 \(X\in L^2(\Omega,\mathcal F,P)\) に対して、部分 \(\sigma\)-加法族 \(\mathcal G\subset\mathcal F\) を考えます。このとき \(E[X\mid\mathcal G]\) は、\(L^2(\Omega,\mathcal F,P)\) から \(L^2(\Omega,\mathcal G,P)\) への直交射影として解釈できます。すなわち
$$P_{\mathcal G}X=E[X\mid\mathcal G]$$
です。射影作用素なので
$$P_{\mathcal G}^2=P_{\mathcal G}$$
を満たし、
$$X=E[X\mid\mathcal G]+\left(X-E[X\mid\mathcal G]\right)$$
と直交分解できます。また、\(E[X\mid\mathcal G]\) は \(\mathcal G\) で決まる確率変数のうち、\(E[(X-Y)^2]\) を最小にするものです。最小二乗は、射影として理解できます。
注意
条件付き期待値は「得られた情報に基づく射影」、量子測定は「観測結果に基づく射影」です。ただし、前者は情報の粗さによる平均化、後者は測定による状態の変化であり、意味は異なります。
5. 量子力学とファイナンスにおける線形汎関数
数学的な概念
Hilbert 空間 \(\mathcal H\) 上の連続な線形汎関数 \(\varphi:\mathcal H\to\mathbb R\)(複素 Hilbert 空間なら \(\mathbb C\))に対して、Riesz の表現定理により、ある \(m\in\mathcal H\) が一意に存在して、
$$\varphi(x)=\langle m,x\rangle$$
と書けます。
量子力学では
Dirac 記法のブラ \(\langle\varphi|\) は、状態 \(\psi\) に \(\langle\varphi,\psi\rangle\) を対応させる連続線形汎関数です。Riesz の表現定理により、ブラはケット \(|\varphi\rangle\) と一対一に対応します。\(\langle\varphi,\psi\rangle\) は遷移振幅を与えます。
ファイナンスでは
将来の payoff \(X\) に現在価格 \(\pi(X)\) を対応させます。価格付けが線形であれば、
$$\pi(aX+bY)=a\pi(X)+b\pi(Y)$$
であり、\(\pi:L^2\to\mathbb R\) は線形汎関数です。さらに \(\pi\) が連続なら、Riesz の表現定理により、ある \(m\in L^2\) が存在して
$$\pi(X)=\langle m,X\rangle$$
と書けます。ファイナンスの内積 \(\langle X,Y\rangle=E[XY]\) を使えば、
$$\boxed{\pi(X)=E[mX]}$$
となります。この \(m\) が stochastic discount factor、あるいは pricing kernel と呼ばれるものです。\(\pi(X)=\langle m,X\rangle\) は、ブラ \(\langle m|\) を \(X\) に作用させたものと読めます。
ただし、これには前提があります。価格が線形になるのは、一物一価などを仮定した場合です。また、正値の \(m\) が存在することは無裁定性と結びついています。市場が不完備なら \(m\) は一意とは限らず、取引可能な payoff の張る部分空間への射影としてだけ一意に定まります。
6. 量子力学とファイナンスにおけるスペクトル分解の例
数学的な概念
自己共役作用素 \(A\) について、固有値問題
$$A\phi_n=a_n\phi_n$$
を考えます。固有関数 \(\phi_n\) は互いに直交し、スペクトルが離散的な場合には、
$$A=\sum_n a_n|\phi_n\rangle\langle\phi_n|$$
とスペクトル分解できます。スペクトルが連続な部分では、和は積分に置き換わります。
特に \(A\) がコンパクトな自己共役作用素なら、固有値はすべて離散的で、\(a_n\to0\) となります。
量子力学では
Hamiltonian \(H\) の固有値問題
$$H\phi_n=E_n\phi_n$$
を解くと、
$$H=\sum_n E_n|\phi_n\rangle\langle\phi_n|$$
のように Hamiltonian を分解できます。
この和の形が成り立つのは、スペクトルが離散的な場合です。実際の Hamiltonian のスペクトルは、一般に次の二種類に分かれます。
- 束縛状態に対応する離散的な固有値(例えば水素原子の \(E_n=-13.6\,\mathrm{eV}/n^2\))
- 散乱状態に対応する連続スペクトル
連続スペクトルを持つ部分では、和は積分に置き換わります。
ファイナンスでは
確率過程
$$X_t,\qquad t\in[0,T]$$
を考えます。平均を \(\mu(t)=E[X_t]\) とし、共分散核を
$$K(s,t)=\operatorname{Cov}(X_s,X_t)$$
とします。このとき \(L^2([0,T])\) 上の作用素
$$(Cf)(t)=\int_0^T K(s,t)f(s)\,ds$$
を定義できます。これが共分散作用素です。
共分散核は \(K(s,t)=K(t,s)\) を満たすので、\(C\) は自己共役作用素になります。さらに正作用素で、
$$\langle Cf,f\rangle\ge0$$
を満たします。これは、実数値の \(f\) について
$$\langle Cf,f\rangle=\operatorname{Var}\left(\int_0^T f(s)X_s\,ds\right)$$
となることから従います。また、例えば \(K\) が連続ならコンパクト作用素でもあります。したがって、コンパクト自己共役作用素に対するスペクトル定理が使えます。つまり、
$$C\phi_n=\lambda_n\phi_n$$
を満たす固有関数系が存在し、
$$\boxed{C=\sum_{n=1}^{\infty}\lambda_n|\phi_n\rangle\langle\phi_n|}$$
と書けます。これは量子力学のスペクトル分解とほぼ同じ形です。
なお、\(C\) が作用するのは \(L^2([0,T])\) であって、確率変数の空間 \(L^2(\Omega)\) ではありません。両者は、
$$\Theta f=\int_0^T f(s)\,(X_s-\mu(s))\,ds$$
という写像 \(\Theta:L^2([0,T])\to L^2(\Omega,\mathcal F,P)\) でつながります。適切な条件のもとで \(C=\Theta^*\Theta\) と書け、\(L^2(\Omega)\) 上の作用素 \(\Theta\Theta^*\) は \(C\) と共通のゼロでない固有値を持ちます。
違いと注意
\(C\) はコンパクト作用素なので、固有値は離散的で \(\lambda_n\to0\) となります。一方、Hamiltonian は非有界で、連続スペクトルを持ちえます。
また、Hamiltonian と共分散作用素は、数学的にはどちらも自己共役作用素として扱えますが、役割はまったく異なります。Hamiltonian は時間発展を生成します。一方、共分散作用素は確率変動の構造を記述します。したがって、
$$H\leftrightarrow C$$
は物理的な対応ではなく、
自己共役作用素として同じスペクトル理論が使える
という数学的な対応です。
7. 具体例
数学的な概念
微分作用素 \(-d^2/dx^2\) の固有関数は、境界条件によって決まります。固有関数による展開
$$f=\sum_n c_n\phi_n,\qquad c_n=\langle\phi_n,f\rangle$$
は、Fourier 級数の一般化です。
量子力学では
長さ \(L\) の箱の中の粒子(\(V=0\)、両端で \(\psi=0\))を考えます。このとき
$$H=-\frac{\hbar^2}{2m}\frac{d^2}{dx^2}$$
の固有関数と固有値は、
$$\phi_n(x)=\sqrt{\frac2L}\sin\left(\frac{n\pi x}{L}\right),\qquad E_n=\frac{\hbar^2n^2\pi^2}{2mL^2}$$
です。\(L=1\) とすれば \(\phi_n(x)=\sqrt2\sin(n\pi x)\) です。
任意の状態は、
$$\psi=\sum_n c_n\phi_n,\qquad c_n=\langle\phi_n,\psi\rangle$$
と展開できます。\(|c_n|^2\) はエネルギー \(E_n\) が測定される確率であり、\(\sum_n|c_n|^2=\|\psi\|^2=1\) です。
ファイナンスでは
Brown 運動 \(W_t,\ 0\le t\le1\) を考えます。その共分散は
$$K(s,t)=E[W_sW_t]=\min(s,t)$$
です。したがって共分散作用素は
$$(Cf)(t)=\int_0^1\min(s,t)f(s)\,ds$$
となります。この作用素の固有関数は
$$\phi_n(t)=\sqrt2\sin\left(\left(n-\frac12\right)\pi t\right)$$
であり、固有値は
$$\lambda_n=\frac{1}{\left(n-\frac12\right)^2\pi^2}$$
となります。したがって
$$C=\sum_{n=1}^\infty\lambda_n|\phi_n\rangle\langle\phi_n|$$
というスペクトル分解が得られます。ここから Brown 運動そのものを
$$W_t=\sum_{n=1}^{\infty}\sqrt{\lambda_n}Z_n\phi_n(t)$$
と展開できます。ここで \(Z_n\sim N(0,1)\) は独立な標準正規変数です。これが Karhunen–Loève 展開です。
量子力学の係数 \(c_n\) は確定した複素振幅ですが、KL 展開の係数 \(Z_n\) は確率変数です。展開の形は似ていても、役割は異なります。
二つの例のつながり
実は、この二つの例は直接つながっています。\(u=Cf\) とおくと、
$$u(t)=\int_0^1\min(s,t)f(s)\,ds$$
より、
$$u'(t)=\int_t^1 f(s)\,ds,\qquad u”(t)=-f(t),\qquad u(0)=0,\quad u'(1)=0$$
です。つまり \(C\) は、境界条件 \(u(0)=0\)、\(u'(1)=0\) のもとでの
$$H_0=-\frac{d^2}{dt^2}$$
の逆作用素 \(C=H_0^{-1}\) です。\(H_0\) は \(V=0\) の Schrödinger 作用素(\(\hbar^2/2m=1\) と規格化したもの)であり、\(\min(s,t)\) はその Green 関数にあたります。
実際、\(H_0\phi=E\phi\) を解くと、固有関数は \(\sqrt2\sin\left(\left(n-\tfrac12\right)\pi t\right)\)、固有値は \(E_n=\left(n-\tfrac12\right)^2\pi^2\) になります。したがって、
$$\lambda_n=\frac1{E_n}$$
です。箱の中の粒子は両端で \(\psi=0\) とする条件で、固有関数は \(\sin(n\pi x)\) でした。ここでは片端の条件が \(u'(1)=0\) に変わるため、\(\sin\left(\left(n-\tfrac12\right)\pi t\right)\) になります。
これは Brown 運動の場合に、共分散核が \(-d^2/dt^2\) の Green 関数になるという特殊事情によります。一般の確率過程でこうなるわけではありません。
8. 少数の固有関数による近似
数学的な概念
展開を最初の \(N\) 項で打ち切ります。
$$f_N=\sum_{n=1}^{N}c_n\phi_n$$
固有値が \(0\) へ速く減衰するなら、少数項でよい近似になります。特に共分散作用素では、固有値の大きい順に \(N\) 項を取る KL 展開の打ち切りが、平均二乗誤差を最小にする最良の \(N\) 次元線形近似になります。
量子力学では
状態が低いエネルギー準位に集中していれば、少数の固有状態で近似できます。例えば水素原子の束縛状態は \(E_n=-13.6\,\mathrm{eV}/n^2\) で、\(E_1=-13.6\,\mathrm{eV}\)、\(E_2=-3.4\,\mathrm{eV}\) のように準位が並びます。\(n\) が大きくなると準位の間隔は詰まり、\(E=0\) より上では連続スペクトルに接続します。
ファイナンスでは
イールドカーブを考えます。ある時点の金利曲線を \(X(\tau)\)(\(\tau\) は満期)とします。
有限個の満期だけ観測すれば、
$$(X(\tau_1),\ldots,X(\tau_n))$$
という有限次元ベクトルになるので、共分散行列を固有値分解する通常の PCA になります。しかし満期を連続変数として扱えば、
$$X\in L^2([0,T])$$
と見ることができます。共分散核
$$K(\tau,s)=\operatorname{Cov}\left(X(\tau),X(s)\right)$$
から共分散作用素
$$(Cf)(\tau)=\int_0^T K(\tau,s)f(s)\,ds$$
を作り、
$$C\phi_n=\lambda_n\phi_n$$
とスペクトル分解します。すると金利曲線を
$$X(\tau)=\mu(\tau)+\sum_n\sqrt{\lambda_n}Z_n\phi_n(\tau)$$
と分解できます。ここで \(Z_n\) は平均 0・分散 1 で互いに無相関な確率変数です(ガウス過程なら独立になります)。実務の PCA では、水準そのものではなく利回りの変化量に対して行うことが多く、その場合は \(X(\tau)\) を変化量と読み替えればよいでしょう。
最初の数個の固有関数が、概ね
- level
- slope
- curvature
のような金利リスク因子に対応します。つまり通常の PCA は、無限次元の共分散作用素のスペクトル分解を有限次元で近似したものだと見ることができます。
対応についての注意
量子力学で残すのはエネルギーの低い固有状態、PCA で残すのは分散(固有値 \(\lambda_n\))の大きい成分であり、基準が逆向きに見えます。§7 の Brown 運動の例では \(\lambda_n=1/E_n\) なので、分散の大きい成分は、エネルギーの低い固有状態に対応しています。
9. 時間発展の展開
数学的な概念
作用素 \(A\) を生成子として、時間発展の方程式
$$\frac{du}{dt}=Au$$
を考えます。形式的な解は、半群 \(u_t=e^{tA}u_0\) で与えられます。生成子の性質によって、半群の性質が決まります。
量子力学では
Schrödinger 方程式
$$i\hbar\frac{\partial\psi}{\partial t}=H\psi$$
の形式的な解は
$$\psi_t=e^{-itH/\hbar}\psi_0$$
です。\(H\) は自己共役なので、\(e^{-itH/\hbar}\) はユニタリ(ノルムを保つ)です。生成子は \(H\) そのものではなく \(-iH/\hbar\) です。
§7 の固有関数展開を使えば、時間発展は固有関数ごとに位相が回るだけで、
$$\psi_t=\sum_n c_n e^{-iE_nt/\hbar}\phi_n$$
と書けます。これは、スペクトル分解 \(e^{-itH/\hbar}=\sum_n e^{-iE_nt/\hbar}|\phi_n\rangle\langle\phi_n|\) から従います。
ファイナンス・確率論では
Markov 過程では生成作用素 \(L\) に対して、
$$\frac{\partial u}{\partial t}=Lu$$
という発展方程式が現れ、
$$u_t=e^{tL}u_0$$
と書けます。\(e^{tL}\) は縮小半群であり、確率を保ちながら分布をならしていきます。可逆な拡散であれば、\(L\) は非正の自己共役作用素です。
時間発展という役割まで比較するなら、量子力学の Hamiltonian により近いのは、共分散作用素ではなく、この Markov 過程の生成作用素です。
二つの時間発展のつながり
ただし、\(H\leftrightarrow L\) をそのまま対応させるのは正確ではありません。時間を虚数にする(\(t=-i\tau\)、Wick 回転)と、Schrödinger 方程式は
$$\frac{\partial\psi}{\partial\tau}=-\frac{1}{\hbar}H\psi$$
の形になり、\(e^{-\tau H/\hbar}\) は縮小半群になります。つまり自然な対応は、
$$\boxed{L\leftrightarrow -\frac{H}{\hbar}}$$
という虚時間の Schrödinger 方程式との対応です。
これを具体的に表すのが Feynman–Kac 公式です。\(L=\tfrac12\nabla^2\) の Brown 運動 \(B_t\) と、\(H=-\tfrac12\nabla^2+V\)(\(\hbar=m=1\))について、
$$u(t,x)=E_x\left[e^{-\int_0^t V(B_s)\,ds}f(B_t)\right]$$
は \(\partial_tu=(L-V)u=-Hu\) を満たし、\(u_t=e^{-tH}f\) と書けます。
Black–Scholes 方程式も、対数価格と満期までの残存時間 \(\tau=T-t\) を使えば、拡散項と割引項(ポテンシャル項に相当します)を持つ同じ型の方程式になります。Feynman–Kac 公式や Black–Scholes 方程式が量子力学と似た構造を持つのは、この半群構造と深く関係しています。
10. 対応表
ここまでをかなり乱暴に並べると、次のようになります。
| 数学的な概念 | 量子力学 | ファイナンス・確率論 |
|---|---|---|
| Hilbert 空間の元 | \(\psi\in L^2(\mathbb R^3)\)(波動関数) | \(X\in L^2(\Omega,\mathcal F,P)\)(確率変数) |
| 内積 | \(\langle\psi,\varphi\rangle=\int\psi^*\varphi\,dx\) | \(\langle X,Y\rangle=E[XY]\) |
| 主役の自己共役作用素 | Hamiltonian \(H\) | 共分散作用素 \(C\)(\(L^2([0,T])\) 上) |
| 固有値問題 | \(H\phi_n=E_n\phi_n\) | \(C\phi_n=\lambda_n\phi_n\) |
| 固有値の意味 | エネルギー \(E_n\)(測定で得られる値。\(\lvert c_n\rvert^2\) はその確率) | 分散 \(\lambda_n\)(その方向の変動の大きさ) |
| 直交展開 | \(\psi=\sum_n c_n\phi_n\)(\(c_n\) は確定した振幅) | \(X_t=\mu(t)+\sum_n\sqrt{\lambda_n}Z_n\phi_n(t)\)(KL 展開、\(Z_n\) は確率変数) |
| 射影 | スペクトル射影 \(\lvert\phi_n\rangle\langle\phi_n\rvert\)(測定) | \(P_{\mathcal G}X=E[X\mid\mathcal G]\) |
| 線形汎関数 | ブラ \(\langle\varphi\vert\) | 価格 \(\pi(X)=E[mX]\) |
| 時間発展の生成子 | \(-iH/\hbar\)(\(e^{-itH/\hbar}\) はユニタリ) | \(L\)(\(e^{tL}\) は縮小半群) |
ただし、同じ行に並んだものが、同じ役割を持つとは限りません。各節で見たように、意味の違いに注意が必要です。
11. 結局、なぜ似ているのか
最初の疑問に戻ります。なぜ量子力学とファイナンスには、これほど似た数学的構造が現れるのでしょうか。最も単純に言えば、
$$\boxed{\text{どちらも関数をベクトルとして扱う関数空間を考え、その上に作用する線形作用素を研究するから}}$$
です。§2 で見たとおり、どちらも \(L^2(S,\mu)\) の形をした Hilbert 空間であり、違うのは基礎空間 \(S\) と測度 \(\mu\) だけです。
そして Hilbert 空間には内積があるため、
- 直交性
- 射影
- 最小二乗
- 固有値
- 固有関数
- スペクトル分解
といった線形代数の概念を、無限次元の関数空間でも使うことができます。したがって、
量子力学とファイナンスが似て見えるのは、どちらも関数をベクトルとみなす Hilbert 空間上の線形作用素論として書けるから
というのが、一つの答えになります。
ただし、この答えはかなり一般的でもあります。\(L^2\) 空間と線形作用素は、信号処理や偏微分方程式、統計学にも至るところで現れます。量子力学とファイナンスに特有の接点は、むしろ §9 で見た虚時間の Schrödinger 方程式と Markov 半群、すなわち Feynman–Kac 公式にあります。
両者が同じ現象を記述しているわけではありません。
まったく異なる対象を扱っているにもかかわらず、同じ関数解析の構造が現れる。そのこと自体が、数学の面白いところなのかもしれません。
完全にジコマン記事になってしまいましたが、ここまでお付き合いいただきありがとうございました。
ご質問やコメントはお問い合わせからよろしくおねがいします。